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厨房思案 第十六話


「忘却のかなたに消えぬ」

このところご近所の人達よりも遠方からわざわざおいでになるお客様が増えて本当にびっくりしているし、有難いことと頭が下がる思いです。

北海道から九州地方まで、多分、インターネットや何かの口コミでお電話を頂いて、
何月の何日に東京に行く用がありついでに伺うが、席はどうですか?などどいったお話から、
一体全体費用はどの位かかるのかね、とか、
あなたは兵庫のお生まれ?などどいったおたずねまであり、
なるべくわかりやすくご説明をしているが、中には
「アノネ、本当においしいの?」といった方もいらっしゃるので、
僕と致しましては、「おいしい」と云って頂くようにお造りをしております、としかお答えできないので、少し返答に困っていると、
「いや、ツマランことをきいた。そのう、なんだ、きっとおいしい」
と云ってご予約を頂いたこともある。

有難いやら、少し不安になる時もあり、なんとも複雑な気持ちである。
ま、とにかく僕は、そのさまざまな、初めてご来店のお客様のご期待に応えるべく、なるべく気合を入れてお造りしている、がしかし、同時に、平常心も併せて心のどこかにあるわけで、
そうしないとなかなか気合だけで乗り切ろうとすると二日間ぐらいでヘトヘトになってしまうのである。 そうなると、三日目にご来店のお客様にヘトヘトの自分をお見せしたくないので、これはもう長続きするものではないから、ある一定の力で仕事をしている訳である。

肉の仕入れと仕込みなどに気も使うし、他のさまざまなことにも集中するので、なるべく平常心を以って営業に臨むのである。
気を楽にしたり、あるいは場に応じてフッと気を入れたり、臨機に場を読み、流れが強い日などはそのまま放っておいたり、その逆にシャキシャキと動いて活況を呼び込んだりと、自分の感性のあるがままに働いているのである。
そうすると、疲れが残らず平均してお客様に目が届くようになる。(ならない場合もあります)

いつだったか、そんな平常心が見事にハズレてしまった事がある。
若い娘さんがご両親をお連れして、自分で働いたお金でお父さんとお母さんに焼肉をふるまっていた。 なんともいえぬホッとする雰囲気で、親に、「これもおいしい」「アレもうまい」などと熱心に勧めている。 親子の食事もたまにはいいものだな、と思っている内に、自分の若い頃をつい思い出してしまった。

親孝行など覚えがない。
僕は、学校の勉強もそこそこにすいぶんと親を困らせて、自分の好き勝手に生きていた。
挙句に父が大病して入院し、死ぬか生きるかの瀬戸際にも、看病は母にまかせてどこかをほっつき歩いて、やりたい放題を繰り返し、おまえは本当に人間になるのか?と自分で思った程だった。

そんな事を思い出しているうちに、急に店が忙しくなり、オーダーは聞き違えるは、洗ったコップを割るは、ついには頭を冷やしに外へ出てしまった。

「何が平常心なものか……。」

今年で77歳の母は何事もなかったかのようにあるがままに生き、今も現役の母であり、唯一残された私達の母でもある。母には、亡くなった父にしてあげられなかったことをしたつもりでいるが、叶うならは、あの娘さんの年頃に戻り父と母を食事にさそいたい。
於、本店、彼岸に思う父の横顔

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